◎教師になった
バレーボールを小さい頃からやっていて、小中高とバレーボール部員として、キャプテンとしてチームを引っ張った成果がみのり、大学は特待生として授業料免除で入学しました。
大学ではかねてより、バレーボールの監督やコーチなどをやりたかったので、教員免許を頑張ってとり、卒業後は、運良く市立の中学校の教師になることができました。
◎新任教師はとてもハード
私の担当するのは保健体育で、生活指導の先生の下についてこれからの教師生活を迎えることに成りました。
生活指導主任の●●先生が、普通の会社で言えば、上司に当たり最初に言われた事が、
「生徒に舐められたら終わりですよ。叱るときはしっかり大きな声でしかりなさい。」
服装が乱れている生徒がいれば、捕まえて叱る。
舐められたらいけないので、強い口調であたらないといけない。
しかし、私には加減がいまいちわからず、毎日のように生徒を叱っていました。
本当は、生徒と仲良くしていたい。
楽しくスポーツをやりたい。
という思いで教壇に立ったのですが、まずイメージと、現実の違いにがっかりしました。
授業では、やはり聞かない生徒、寝ている生徒が居て授業でも怒鳴り散らすのが当たり前になっていて、生徒からは、嫌われるし、どんどん、彼らの保険の成績も悪くなり、授業というより、説教がメインの状態になっていました。
そういったこともあり、指導主任の●●先生より
「小テストを、やりましょう。」
との提案があったので、授業のたびにやることになったのですが、それが私の首をさらに締め付けるという自体に陥ることに、その時の私は気づいていませんでした。
当時は生徒数がすくなくなく、1学年8クラス、各30名程度に教えていたわけですが、私が担当する生徒240名への小テストの採点、問題作成を毎日やることになり、段々と残業時間が伸びていきました。
他にも、授業の準備だったり、校舎の見回り、生活指導会議などに追われてしまい、ゆっくりする時間もなく、睡眠時間を削って頑張っていました。
「そのうち慣れる」と自分に言い聞かせて。
◎部活動の顧問になった。
陸上部の顧問の先生が、急遽寿退社をすることになり、職員室では、誰が顧問をやるのか、と会議になりました。
●●先生が、私にさせたらどうだろう?
という提案を出し、それが通り畑違いの陸上部の顧問をやることになりました。
もちろん私は、「陸上やったことないですよ。」と言ったのですが、他の先生方から「先生は若いんだからすぐに覚えるよ。それに熱心に頑張ってらっしゃるから。」
という、励ましの言葉をもらい、やることになりました。
もちろん、小テストは継続中です。
◎陸上部との人間関係
私が新任教師という事と、陸上の事をよく知らないということをいい事に、三年生からは、邪魔者扱いされながらも、バレーボールで鍛えた知識を使い、なんとか顧問をやっていました。
部活動というのは、放課後にやるもので、もともと私が他の雑務をやっていた時間をまるまる使いました。
そうなると、ほんとに、家に帰る時間がなくなる。
ひどいときは、21時くらいまで学校にいたこともあります。
我々教師は公務員で、部活動には残業はつきません。
つくとこもあるとか聞いた事はありますが、
基本的に、つきません。
挙句の果てに、土日は早朝からの部活動で、ほぼ一日潰れてしまい、大会があれば、現地まで自腹をきっていかないといけません。
給料が、いいとはいっても、納得できたものじゃありません。
普段の授業、部活に追われて、私の体重はどんどん軽くなり50キロから40キロを切るくらいに激ヤセしました。
その頃から、ふらふらするようになり、
体調が著しく悪くなっているのに気づきはじめました。
食生活もみだれ、まともな食事は学校の給食だけになり、本当に悲惨な状態でした。
教師の間では、熱心な先生もいて、部活動をやらないと教師としてつまらないと、古い考えの方もいて、私が顧問を辞めたいとこぼしても、聞いてもらえず、上司の、●●先生に至っては、
「なぜ、顧問をやるといったんですか?大人ですよね。責任持ちましょうよ。」と諭してくる。
そもそも、●●が、言ったことですよね。
と心の中で言いながら、頷く事しかできませんでした。
なんだかんだで、一年が過ぎ、陸上部の顧問としてだいぶマシになって来た頃でしょうか。
夏の炎天下の、中での練習していた土曜の朝の事です。
「先生!あいつがたおれた!やばい!」
とキャプテンの子が来たので、現場に向かうと、一年の子が過呼吸になって倒れていました。
なんとか、問題はなかったのですが、その子の母親が翌日学校に来て、「炎天下の中、休憩もさせずに、無理やり息子を走らせた!」と怒鳴り込んで来ました。
私も監督不行き届きといいますか、謝ったのですが、収まらず、教育委員会まで話があがり、大事に。
倒れた生徒の家まで謝りに行きましたが、取り合ってもらえないまま、私は教壇を降りることになりました。
こんな過酷な仕事はあり得ない。
環境を改善しないかぎり、私のような先生はいっぱいでてきますよ。