私が36歳の時、中学校3年生を担任した時の話です。
私のクラスに由紀子さん(仮名)が在籍していました。
彼女はおとなしい性格でしたが、クラスの学級委員を務めていました。
彼女の家庭環境は、母親と小学校4年生の妹の3人暮らしでした。
彼女は将来得意の英語をいかした仕事に就きたいと考えていました。
そこで彼女は県立○○高校普通科英語コースを第一希望に、第二志望に私立△△高校の英語科を受験する準備を進めていました。
学校の進路検討会では、第一希望の高校の合格の可能性は50%、第二希望の高校の合格の可能性は90%でしたので、まずは第二希望に合格をして、その勢いで第一希望に挑戦しようと考えていました。
1 まさか
2月中旬に第二希望の高校入試が始まりました。
彼女はその当時流行したインフルエンザに罹患しており、熱がある状態で、別室で受験をしました。
私はそのような状態でも、彼女の実力からすれば、合格するだろうと考えていました。
試験終了後、出来具合を尋ねると、「できた」と言っていました。
しかし、合格発表者の名簿には彼女の名前はありませんでした。
また、この時点で第一希望の高校には願書を提出済でした。
母親と彼女には、出願変更の相談を持ちかけましたが、彼女は「○○高校に入学するために、3年間頑張ってきたから、合格の可能性は低いのかもしれないけれど、頑張りたい」と泣きながら訴えてきました。
母親も本人の思いを尊重したいということでした。
私は「あと3週間あるから一緒にがんばろう」と言うだけでした。
唯一の救いは例年○○高校の倍率は低いので、今年も低いだろうと思い込んでいましたが、後にも先にもこの年だけ、〇〇高校の倍率は本県でナンバー1の高倍率でした。
さすがに彼女も驚いていますが、勉強するしかありません。
この時点でわたしのクラスの生徒で次年度の進路が確定していなかったのは彼女だけでした。
まさかこんな状態になるとは。
2○○高校受験
彼女は早く登校して、昼休みも、放課後遅くまで勉強していました。
家庭でも深夜3時ぐらいまでは勉強をしていました。
私も彼女が学校にいる間はできるだけ、彼女のそばにいて仕事をしたり、彼女の質問に答えたりしていました。
私は毎朝学校近くの神社に、合格祈願に行っているのですが、ある日彼女のお母さんも毎日祈願に来ていることが、境内で鉢合わせして分かりました。
彼女はクラスメイトからも信頼を得ていたので、昼休みは彼女の勉強の邪魔にならないように静かにしておこうとか、学級委員の仕事を彼女の代わりに進んで引き受けてくれたりしていました。
また、彼女の親友は手製のお守りを作ってくれました。
受験前日、私は漫画スラムダンクの安西先生の言葉を引用して、「どんなに難しい問題が出題されても、絶対にあきらめないように。あきらめたら試合終了」という話をクラスでしました。
彼女は別れ際に「先生、ここまでありがとうございました。頑張ってきます。」といいました。
私は彼女に、「俺の数学の力を貸そう。(私は数学たんとうだったので)」といい、握手をしました。
受験は終わり、卒業式にむけてクラスは彼女を中心に準備をすすめました。
そして卒業式、本県では卒業氏の翌日午前9時から県下一斉に公立高校の合格発表になっていました。
私は合格の知らせを職員室で待っていました。
10時頃から生徒たちが合格の有無を報告にきました。
職員室でも悲喜こもごもでした。
12時を過ぎても彼女は現れません。
「やっぱりだめだったか」と一瞬頭をよぎりましたが、安西先生の言葉を思いだし、彼女の合格を信じました。
そして彼女は泣きながら職員室に入ってきました。
「先生、合格したよ」と私に抱き着いてきました。
私は「合格しているなら、もっと早く報告しにこい」と泣きながらいいました。
すると、彼女は「お礼」と言って紙包みを手渡しました。
そこには私の大好きなハーゲンダッツのアイスクリームがたくさん入っていました。
私はこのクラスの担任になった4月に生徒全員の前で、「お前たちの進路が全員決定するまでは、大好きなアイスクリームは食べない」と宣言していました。
彼女はそのことを覚えていたらしく、合格を確認した後、デパートにアイスクリームを購入しにいったとのことでした。
その後の話で、彼女が「先生が出してくれた数学の予想問題が的中して、その瞬間に合格できると確信した」と話してくれました。
3その後
彼女は高校入学後も勉強と大好きなテニスを一生懸命がんばりました。
高校卒業後も懸命の努力を続けました。
そして、国内線、国際線のCIとして活躍しました。
私が彼女の妹を修学旅行で関西空港に連れて行ったとき、由紀子さんと5分間だけ会うことができました。
既に立派なCIでした。
彼女は30歳で結婚し、今では地上勤務でCIを指導する教官になっていると聞きました。
私は小学校2年生から中学校3年生まで幸運にも担任をすることができました。
学年によってそれぞれ面白さは異なりますが、中学3年担任は高校受験というドラマがあり、教職を去った今でも記憶に残ります。